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子どもと文化芸術 第1章 生きる力と文化の力
播磨靖夫      
はりまやすお (財団法人たんぽぽの家理事長/エイブル・アート・ジャパン常任理事)
1942年生まれ。新聞記者を経てフリージャーナリスト。障害のある人たちの生きる場としての「たんぽぽの家」づくりと自己表現できる社会づくりを展開。21世紀の市民芸術運動「ABEL ART MOVMENT 可能性の芸術運動」を提唱。
KIDS & ARTS 2004夏  2004,7,27(火) at : 俳優座劇場 より
「子どもと文化芸術 / 生きる力と文化の力」
 今日のシンポジウムは俳優座劇場50周年を記念して企画されたと聞きました。これはたいへん素晴らしいことだと思っております。と言いますのは、われわれは今年3月、奈良で「アートとソーシャル・インクルージョン」というフォーラムを開催しました。 ソーシャル・インクルージョンという言葉は、「社会的包括」という意味で、社会的に疎外されたり、排除されている人たちを包み込んで共に生きるということです。これはイギリスをはじめ欧米では公共政策の柱になっておりまして、公立の博物館、美術館、資料館、図書館などが積極的に取り組んでいます。
 日本でも公立の文化施設が積極的に取り組んでいくことが大事だと思いますし、同時に、俳優座劇場のような民間の公共性のある施設も門戸を開いていくことが大事だと思っておます。そういう意味で、今回のこの企画はたいへん意味のあることだと思っております。
 私は奈良にある障害者の福祉施設の理事長をしておりますが、今、地域の子どもたちのためのプログラムが2つあります。障害者の福祉施設は障害者だけのプログラムを組めばいいのではなく、ソーシャル・インクルージョンで、高齢者や、介助されながら地域で生活している障害者、そして子どもたちに向けて施設を開くことが、地域における施設のあり方ではないかと考えているからです。  一つは障害のある子ども、といっても車いすに乗っているとか、耳が聞こえない、目が見えないという古典的な障害者ではなくて、外見は普通の子と変わらないように見えるけれどもコミュニケーションがとれないとか、多動で、学校でいつもいじめや排除の対象になっているような子どもたちを集めて地域で生活支援をするプログラムです。例えば絵を描くプログラムや「食べ物」を通して互いに関心を持ち合おうというプログラムがそうです。
 もう一つは幼稚園や保育所に入る前の子どものためのプログラムで、「やんちゃクラブ」と言います。これは週に1回、地域の若いお母さんたちが、施設のホールを使ってやっています。子どもたちが活発に走り回っている姿を見ることは、われわれに明るさをもたらしてくれます。

生きる文化の衰退
 今日は「生きる力と文化の力」ということでお話しさせていただきますが、今、世の中は悲惨な事件が続発しており、哀しみに満ちあふれていると言ってもいいのではないかと思います。
 大きくは戦争やテロがあり、それが止まりません。正しい戦争やテロはないのに、戦争やテロが独善的に正当化されています。事故や災害もあります。また今や当たり前のようになりましたが、 子の親殺し、親の子殺しがあり、多くの人たちが理不尽な、あるいは不条理な死を遂げています。
 先日は、自殺者が6年続けて年間3万人以上いると報じられていました。この数はたいへん衝撃的ですね。「生きる文化」が衰退して、「死の文化」が支配的になってきているのだと思うのです。  どのあたりに問題があるのかということは一口では言えないのですが、大きく言うと、世界と自分の関わりが切れてしまっているのではないでしょうか。
 世界について語ることは自分について語ることであり、また自分について語ることは世界について語ることだというように、以前には世界と自分がつながっていた時代がありました。そして、これまで人間は、世界と自分のつながりを語るときには宗教や文化、芸術を使ってきたのです。ところが今、 「神は死んだ」という言葉があるように宗教は力を失いつつあります。芸術や文化も衰退しています。  今、まさに世界は破綻し、一人ひとりが孤立して闇を彷徨っているという状況ではないかと思います。そして、世界が破綻していることが、人々の感受性も衰退させているのです。人の痛みや思い、苦しみを分かち合うことができなくなっているのです。
 先週、障害のある人たちのパフォーミングアーツに関心のある人たちと、平田オリザさんが主宰している劇団「青年団」の人たちと一緒に神戸で3日間、演劇ワークショップの勉強会をしました。  昨今はワークショップが大流行で、あらゆる分野でワークショップと銘打った活動が行われているようですが、ワークショップにはいろいろな考え方があるんですね。そこで、ワークショップとは何かということについて議論したのです。 そして到達したのは、先ほど申しましたように、自分と世界を認識するための方法論です。現在、それを失ってしまったことで大変大きな問題を抱えていると思うのです。

現実とは別の世界で生きる子ども
 先日、佐世保の小学校で、同級生を殺害するという、とても悲しい事件が起こりました。その前にも長崎で中学生が小さな子どもを駐車場から突き落として、殺してしまうという事件がありました。たまたまでしょうが、どちらも長崎県で起きました。ここに、都市の子どもと地方の子どもの問題が一つ浮かび上がってきたかなと思います。東京のような都市の子どもたちには、まがりなりにもいろんなところに居場所があり、いろんなつながりがありと、生きる選択肢が多いわけです。 都市の子どもは自分のしたいことによって、どこに行くかを選択できます。ところが地方にはそれがほとんどないということです。もちろん地方にも子ども劇場はたくさんあり、子ども関係のNPOもずいぶん増えましたが、選択できるほどの数がないということです。多くの子どもたちは居場所がなく孤立して生きています。
佐世保の事件で分かったことは、この女の子は居場所をバーチャルなところに見つけていたということです。自分のホームページを開いて、そこでおしゃべりを楽しむ。そこが彼女の居場所であったわけです。つまり現実の世界は破綻しているけれど、違う世界を彼女はつくっていたということです。  そのもう一つの世界、バーチャルな世界では、たぶんインターネットやDVDというものが大きな位置を占めているのでしょう。彼女が気に入ってよく見ていたDVDは、中学生が最後の1人になるまでクラスメイトと殺し合うという、有名な映画『バトルロワイヤル』でした。そして自分でもそれをなぞったシナリオを書いていました。
 この映画はあまりにも残酷なシーンが多いので、15歳未満の子どもは入場禁止になりました。しかしDVDは借りられます。この女の子は、お姉さんの会員証を使って内緒で借りたということです。こういうもう一つの世界、バーチャルな世界に彼女は身を置いていました。
 しかし、彼女は残酷なものばかりをホームページに書いていたわけではなく、自分の詩も載せていました。それは「嘆きの賛美歌」という詩で自然破壊を嘆いて、生き物の命の大切さを謳っている詩です。そういう優しさ、つまり感受性を持っている女の子なのです。

美しい表現と醜い表現
 障害のある人たちとの関わりの中で、芸術文化の可能性をどう展開するかという取り組みを30年近くやってきました。一つは「わたぼうしコンサート」で、障害のある人たちや子どもたちの詩にメロディーをつけて、みんなで歌うコンサートです。この「わたぼうしコンサート」は今年の8月1日で31年を迎えます。 そこから発展した「わたぼうし音楽祭」は、今ではアジア太平洋にも広がって、世界的に展開しています。
 こういう表現活動を通して、他者とのコミュニケーションをとり、社会に出ていくような仕掛けをつくってきましたが、そこでちょっと分かってきたことがあります。それは、自己表現には美しい表現と醜い表現があり、人間はこの2つの表現力を持って生まれてくるということです。どちらが育つかというのは、まさに育つ環境にあるということですね。良い環境で育った子どもたちは美しい表現を身につけて、それをどんどんやっていきます。
 醜い表現とは殺人、いじめ、暴力、そういう類のものです。ところが、どうもわれわれは日常的にこの醜い表現が育つように、育つようにとしているのではないかと思えるのです。  一つ例を挙げますと、われわれおとなが使っている言葉です。日常、われわれは子どもに「早く起きなさい」、「早く食べなさい」、「早くお風呂に入りなさい」、「片付けなさい」、「並びなさい」、「勉強しなさい」、「静かにしなさい」、「仲良くしなさい」と命令形の言葉を使っています。あるいは「汚いからさわっちゃダメ」、「走っちゃダメ」、「遊んじゃダメ」、「ケンカしちゃダメ」、つまり否定形の言葉です。 こうした命令形と否定形の言葉で子どもを育てているのではないかということです。この命令形と否定形の言葉は、体全体から否定的なエネルギーを出しながら発せられているということに、われわれおとなは気付いていません。
 佐世保の女の子の事件については、解明しなければいけないことがたくさんあると思いますが、マスコミの報道によると、彼女は殺された女の子と一緒に入ったソフトボール部を親に退部させられたと伝えられています。まさに否定形、命令形の強い言葉が使われ、そこで彼女の人間性が変わってしまったのではないでしょうか。彼女は自分の存在そのものを否定されたような思いを持って、バーチャルな世界に引きこもったのではないか、 そこで醜い自己表現が現れ出て殺人に到ったのではないかと思うわけです。

芸術文化の力
 子どもの悲惨な事件はおとなの問題と複雑に絡み合っています。おとなは子どもの事件が起きるたびに、「心の闇」という言葉を使い、子どもの心の問題に注目したがります。 何か起これば「心のケアが大事だ」と言いますが、それは心の問題ではなくて、関係やコミュニケーションの問題ではないかと思うのです。子どもの日常生活のなかで、困難を解消する人間関係がないということが大きな問題だと思っているのです。
 今、臨床心理とか、心理療法とか、カウンセリングとか、日本は心理主義が流行っていて、心さえ解決すれば問題は解決すると考える傾向にあります。が、心理主義的手法が万能薬として機能しているような状況はどうもおかしいんじゃないかと思っています。 すべてが心の問題にすり替わることで家庭や学校、社会の病巣を隠してしまい、問題の根本的な解決を遅らせていると思えるのです。  ですから、豊かな人間関係の中でコミュニケーション能力を取り戻していくことが大事で、心のケアを含めた生活のケアをどうするかということが大きな課題だと思っています
。  その生活のケアを、芸術文化の力を生かしてするという方法があると思います。芸術文化は子どもたちのQOL(Quality of Life)、生活の質、生命の質、人生の質を高めるために非常に役に立つと言われています。そして、もう一つ見落としてならないことは、AOL(Arts of Life)、 芸術は生き方の技術に役立つということです。つまり厳しい現実に呑み込まれないで、押し返していくような、あるいは問題を考えながら自分自身で解決していくような力を与える、これが芸術文化の力ではないかと思うのです。
 われわれは障害のある人たちがアートを通してかけがえのない自分になっていくと同時に、さまざまな人たちとコミュニケーションがとれるようにと考えて活動を広げていますが、今年から、障害のある人と、障害のない人とが一緒にパフォーミングアーツ、演劇、音楽や身体表現などをするプロジェクトも始めました。 そのような中から役者が出てほしいなという夢もありますが、大事なことは、演劇的な手法を学びながら生活の中の困難を解決する力、つまり生きる力をつけてもらうことだと思っています。演劇は演技を通して五感を解放し、感じる力を深め、 自己理解と他者理解を行うものです。こういうものを展開することで、子どもたちに生きる力をつけたいと思っております。

魂の表現
 美しい自己表現については大江健三郎さんは、ご子息の光さんを例に引いてこう話しておられます。大江さんは「どんな子どもでも、喜びであれ、悲しみであれ、自分の感情を表現しようとする欲求を持っている。それが他人に受け止められたらある種のコミュニケーションが成立する。それがさらに社会に向かったとき可能性が生まれる」とおっしゃっています。光さんは自閉症児でしたが、音に興味を示すことに気付き、まず家族が関心を持ち合います。 そして専門家である音楽家が加わり、それが音楽になり、その音楽が癒しの音楽として高い評価を受けるようになりました。大江健三郎さんがノーベル賞を受賞したときに、「自分の息子、光の音楽はまさに魂が泣き叫ぶ声である」というスピーチをしています。
 われわれは障害者の表現を「魂の表現」と捉えようとしています。それは人間の謎や、存在のあるがままの神秘について探求する道ではないかと考えたからです。好きな言葉に、「人間の中に魂が棲むのではなくて、魂の中に人間が棲む」というのがあります。まさに魂は関係、つまりつながりの中に現れるものです。 人間と人間、人間と自然、人間と大いなる存在とのつながりの中に魂というものが現れるということではないでしょうか。 その魂が、今、この厳しい状況にあって、非常に寂しい思いをしております。魂が抱きかかえている寂しさを想像力で変容させることができたとき、どんなに素晴らしい結果を産むかということを、これから皆さんにビデオで見てもらいたいと思います。
 これは去年、われわれが全国6カ所で行ったプロジェクトの一つです。金沢では、金沢市民芸術村で子どものための演劇を担当しているディレクターの黒田百合さんが、宮澤賢治の『風の又三郎』をもとにした即興のドラマをつくってくれました。

(ビデオ上映)
「風の又三郎」
エイブルアート舞台人養成講座東京公演より
写真 宮川舞子
写真提供 エイブル・アート・ジャパン
集団で表現するシナリオに障害者がどのように参加できるか試行錯誤の挑戦が始まりました。
  オーディションには小学校3年から高校2年生までの障害のある子どもたちが訪れました。
  その中には体格の良い(いたくらしんいち)君こと、しんちゃんの姿もありました。
  しんちゃんは県立養護学校高等部2年生で言葉がしゃべれません。
  この日はしんちゃんも含め、オーディションで選ばれた9人の顔合わせです。
  黒田さんは稽古が終わったあと、子どもたちの行動を思い浮かべながら台本の手直しをします。
  子どもたちに『風の又三郎』の台本が配られました。しんちゃんは主役の又三郎です。
  この日、子どもたちは「テン・シーズ」の演劇を鑑賞しました。初めて芝居を観る子もいて、舞台を見つめる瞳に力が感じられました。   稽古場での最後の練習です。
  又三郎役のしんちゃんはこの日、ちょっとしたハプニングで稽古の時間に遅れてやってきました。
  子どもたちは演劇を通して、人と人との関わり合い、喜び合いを学んでいます。セリフの読みや、全体の動きも全員の努力で上達しました。
  このままみんなの輪をつないでいけば、きっと公演は成功するでしょう。
  この取り組みは障害者の芸術活動を支援する東京のNPOが呼びかけたもので、金沢や仙台など5つの都市のグループが参加しました。
  金沢では発達障害を持つ9人の子どもたちが健常者の仲間とともに演劇にチャレンジしました。
  会場にこの取り組みを企画したNPO代表の播磨靖夫さんが姿を見せました。「この機会を通して、 生きているとはどういうことかを考えるきっかけになっていくんじゃないかと思うんです。それがわれわれの大きなねらいなんですね」
  いよいよ開場です。入り口には予想を超える長い列が出来、大勢の人たちが集まりました。
  開演時間が迫ってきました。
  本番直前、一番元気な(あい)君が緊張とプレッシャーで今の自分から逃げ出したい気持ちと格闘しています。
  演技をサポートする子どもたちがしんちゃんの緊張をほぐします。
  風の子に誘われ、又三郎がやってきました。
  今度は3月に東京の国立青少年センターのホールで、全国6カ所の成果を発表します。
  みんな修学旅行の気分でなかなか寝付けません。
  さて公演の始まりです。
  それぞれのグループは体を使ったいろんな表現の世界を展開しています。
  お母さんたちは会場が満員のためロビーで舞台の成功を祈ります。
  『風の又三郎』に子どもたちが取り組み始めて半年、安定した演技を見せています。
  「イメージしていたものよりも、舞台がすごく広がっているなと思いました」
  「サポートする健常の子どもたちの温かいまなざし、差し伸べている手に感激しました」
  「こういう障害のある人たちの表現について社会が関心を持つことが非常に大事だと思いますね。関心を持ってくれることによって、社会の質、文化が育まれるんだと思います」
(ビデオ終了)
 魂の抱える寂しさを想像力によって変容させることが、いかに刺激的かということを見ていただけたと思います。
 黒田さんは、「これまで障害のある人たちと接したことがないので、非常に戸惑いがあった。けれども、健常の子どもたちのサポートと、 療育の面では親や療育センターの職員が影でサポートしてくれたからこういうステージが出来た」と言われておりました。子どもたちはこうしてどんどん成長していくわけです。親はそこに、 子どもがその障害を克服するんじゃないかと過大な期待をふくらませることもあるんですね。でも障害は克服できないのです。
 黒田さんは「障害を治すことはできないけれども、私は生きる力を育てることができる」とおっしゃっています。この生きる力は何かということです。それはたぶん生きた環境と、 そこでの交流によって養われる感受性ではないかと思います。それは普段、われわれが「優しさ」と言っているものです。安心できる環境にあって、さまざまな人たちが協働するなかで優しさは育まれてきます。

コミュニティの崩壊
 冒頭でも言いましたが、今、人と人が関わり合う能力が非常に衰退しています。特に子どもたちを見ていると、この能力が非常に弱くなっています。人と人のコミュニケーション能力は五感を使って、相手の意図や雰囲気を探ることから身についてくるわけです。しかし、今、 子どもたちはパソコンや携帯電話に頼って生きるようになってきました。ですからコミュニケーション能力が非常に衰えています。人と人が分断されて、関心を持ち合ったり、つなぎ合っていくことの素晴らしさを感じなくなっています。こうしたことは子どもたちだけではありません。 われわれおとなもそうです。これが実は、身近なコミュニティの崩壊へとつながっているのです。コミュニティというのは、何も地域社会だけではありません。家庭というコミュニティ、学校というコミュニティ、あるいは社会全体、ミクロからマクロまでのコミュニティが崩壊しつつあるということです。 そこに問題があるのではないかと思っているわけです。  われわれは日常、テレビやパソコン、携帯電話を通してより多くの人たちに接することができます。しかし、それで本当にリアルなつながりを持っているかというと、そうではありません。例えば世界各地でさまざまな紛争があって、多くの人たちが傷ついているということはテレビなどで知っているわけですが、 しかしその傷ついた人たちと共感できているかというと疑問だと思います。  身近な人たちと共に生きることを喜ぶ感情を回復することが非常に大事だと思います。そこから身近な集団や、それを超えた人々と共感できる新しい心の回路が生まれてくると思うのです。
他者との関係回復
 この3月に奈良で「アートとソーシャル・インクルージョン」というフォーラムを開いたと冒頭で申しあげましたが、基調講演では「これからは他者への配慮を中核とした人間観、社会観を築いていくことが大事だ」と提案しました。
 他者というのは他人だけではありません、異文化も他者ですね、動物、植物も他者です。また自然を含めた環境も他者です。人間と人間の間だけではなくて、人間と自然、人間と環境、あるいは人間と大いなる存在に目を開くことが非常に大事だということです。
 例えば、このテーブルの上には花がありますが、この植物はわれわれとは違った生命体なんですね。植物もちゃんと生きているんですね。フォーラムでは大阪市立大学で環境音楽を研究されている中川真さんが実験的なパフォーマンスを見せてくれました。 植物から発せられる電波をパソコンにつないで見ると、一本の時には寂しい思いをしながら生きているのですが、仲間を増やすと、とたんに電波が活発になってくるんです。そして見知らぬ者が来ると脅え、音楽を流すとイキイキとすることが見えました。そういうものと人間がどう交感していくかということも、 大変大事なわけです。ですから、われわれのつながりを回復するというのは、人間と人間、動植物と人間、自然環境も含めて、他者全体との関係の回復をはかることではないかと思うのです。
 配慮とは、別の言葉で言えばケアですね。ケアというのは、介護、介助の意味にとられますが、もっと大きな意味で、お互いの存在に根ざした関わりをもつということです。そういうケアをもっと日常的にやっていくことが人間性を回復する道ではないかと思っています。
 今、われわれの「生」を支えているコミュニティが崩壊してしまって、生きづらい社会になっているわけですが、「生」を支えるコミュニティをどう再生するするか、それがわれわれに問われている課題だと思います。
 コミュニティの絆を回復させるための方法は3つあると思っています。
 一つは、痛みを分かち合うということです。
 二つ目は、願いを分かち合うということです。
 三つ目は、何を良しとし、何を否とするかの尺度、モノサシを分かち合うということです。
 そういう中でコミュニティが回復していき生きやすい社会になっていくのではないかと思っています。

個人を超えた芸術文化が大事
 最後に、われわれがいろいろな取り組みをやっている根底にあることをお話ししたいと思います。
 岡本太郎というアーティストがいました。もう亡くなられてしまいましたが、大阪での万国博覧会のときに太陽の塔をつくった人です。「芸術は爆発だ」と言った、ものすごく行動的なアーティストでした。  その岡本太郎が書いた『芸術と青春』という本がありますが、この中で彼は「芸術というものは、個人に対して賭けるのではなくて、非情な社会、あるいは世界に対して賭けるべきだ」と書いています。  今、世の中には苦しんでいる人たちがいっぱいいます。排除されたり、差別されたり、疎外されている、あるいはさまざまな不条理に苦しんでいる人たちに向かって、芸術文化は何ができるのかということを問いかけていくことが大事だと思っています。
 これからは、非常芸術というものが大事になってくると思っています。非常とは、英語で言うと「impersonal sorrow」、「impersonal」は個人を超えたという意味です。「非個人の悲しみ」に向き合う芸術、文化が大切だということです。個人の苦しみや悲しみを解消することも大事ですが、 それを超えたところにも思いを至らせて、そして悲しみや痛みを共有しながら、願いを分かち合っていくという芸術文化をこれからつくっていく必要があるのではないかと思います。
 宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないと、個人の幸福はない」と言いましたが、まさに「世界がぜんたい幸福になる」ための芸術、文化がこれから生まれてくることを願っています。